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リズと青い鳥・サントラ感想 - 作品世界への架け橋としての劇伴楽曲

牛尾憲輔さんによる映画『リズと青い鳥』サウンドトラック「girls,dance,staircase」を聴いた感想文が以下につらつらと続きます。

※映画本編のネタバレも含みますからご注意ください。

リズと青い鳥』のサントラを購入し、再生開始約5秒程で衝撃を受けた。
あの靴音や下駄箱の音や小鳥のさえずりまでもが、楽曲の一部として収録されていたからだ。

「作品世界の中で鳴っている効果音と思ってたかもしれないけど、あれ、音楽だよ」
そう主張されてしまったのだから。
あまりにも自然に、牛尾さんの楽曲は作品世界の中に始めから入り込んでいた。


サントラの1曲目「wind,glass,bluebird」を聴くと、あの靴音たちを音楽の一部であると主張することには一切の無理矢理さがなく、説得力があると感じる。
足音や靴箱の物音は、音楽を構成する1つの要素として時にテンポを刻み時にずれを生み、音楽的な響きとしてそこにある。風の音も、鍵盤の音も、足音も、対等な楽音としてコントロールされていた。


劇伴音楽というのは、普通は作品世界の中には存在し得ないはずのものだ。作品世界に居場所がある音というのは、セリフであったり効果音であったり、そういうものだけのはずだ。
しかし『リズと青い鳥』においては、効果音と劇伴音楽の垣根を取り払い、作品世界の中にも音楽の居場所を確保したかのように聴こえているのだ。


「効果音のように音楽を扱う」事は、非常に危ない橋を渡る事だと思う。それは、ともすればファンタジックだったりコメディタッチな印象を持たせてしまうからだ。*1うまく作用すれば印象的な演出にもなるが、一歩間違うと意図に反してコミカルになったり非現実的なシーンを作ってしまいかねない。
しかし「wind,glass,bluebird」では、"実写に近い"とまで評される『リズと青い鳥』のリアルな世界観の中で、そのバランスを取り切っている。*2


それでは、楽曲が作品世界に居場所を得る事が持つ意味とは何なのだろう?
色々考えてみた結果、それは我々観客と作品世界の間の架け橋を作る事になるのだろう、と思い至った。

離れて見守るための楽曲 - ビーカーになること

架け橋を作るとはどういうことか?

そこに迫る前に、『リズと青い鳥』の作品コンセプトを振り返ってみたい。公式HPやその他記事を読むと、この作品ではみぞれと希美を"ビーカーや壁になって"そっと見守るというスタンスが貫かれている。

僕はシナリオを読んだときに、これは主人公のふたり以外に知られてはいけない、すごく秘めやかなお話だと思ったんですよ。それに、山田さんのロケハンの写真や絵コンテを見ると、主人公の二人を見ている視点が廊下の窓や音楽室の備品、生物学室のビーカーからのものになっていて、そういうものたちが見守っている視点のお話だと感じたんですね。

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この作品は希美とみぞれの、女の子の秘密のような、あまり公にするお話ではないという感じがして。二人が秘密をこっそり出していくのを、ときには椅子になり、ガラスになり……彼女たちに気づかれないようガラス越しに覗き見るように記録していきました。

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決して"人物に寄り添う"楽曲ではなく、人物から少し離れた所の無機物の音を響かせ、そこから彼女たちを覗くような楽曲が生まれたのは、こういったコンセプトに発しているだろう。

一方で、こういう無機物の物音が明確に聴こえない楽曲も多い。その場合、ぼやーっと漂う空気みたいなものを感じる楽曲が多い。「girls,dance,staircase」の楽曲のほとんどには、明確なメロディーが見当たらない。
明確なメロディーをつくらないと言う事は、人物から一定の距離を取る事だ。これは牛尾さんのagraph名義でのアルバム「the shader」から繋がってきた考え・方法だと感じる。(これは以前『聲の形』の記事でも触れたので、詳しくはそちらを参照してほしい。)

r-lin.hatenablog.com

どちらにしろ、みぞれ達から離れた所のモノや空間に音楽が宿っている。我々観客は「そこからなら眺めていいですよ」とガイドされ、決して彼女達に肉迫することは許されていないようだ。ましてや音楽によって"感情移入"する事などは許されていないように私には思える。だからこの映画で私にできた事は、遠くからこぼれ落ちて来る2人の気持ちの欠片を拾い集める事だけだった。



「人物からの距離」に関して余談だが、非常に距離の近い楽曲も存在している。それが「doublelead, girls」だ。
その他楽曲にあるリバーブはかかっておらず、非常にドライな音質ではっきりくっきりとオーボエファゴットのメロディーが流れる。これにより、みぞれまでの距離の近さが想起される。ぐいぐいとみぞれの前に現れる梨々花を通してのみ、我々はみぞれの目の前に立つ事ができた。ありがとう梨々花。*3

我々がビーカーに居場所を得るために - 架け橋となる音楽

少し話が逸れたが、みぞれと希美の2人だけの秘密を我々が"覗き見る"ために、彼女達の周りのモノになるという方法が提示された。


しかし、言うは安しなのだが実際我々がビーカーやフグの水槽になるのは難しい。我々は観客であって、作品世界に入り込む事は本来できない。私が今いる居場所は1800円を払って入った映画館の客席J-14であり、決してみぞれのそばのビーカーにもフグの水槽の中にも居場所は無い。当たり前だが。
困った。これでは2人の世界を眺められない。


この"観客席と作品世界のギャップ"を埋める架け橋となってくれるのが、牛尾さんの作った楽曲が担う1つの役割であると思うのだ。劇中音楽が現実と作品世界の架け橋となり、私をビーカーやフグの水槽の所に置いてくれた。


最初にも述べたが、劇伴音楽とは本来作品外の世界の音である。決してその音楽を発している具体的なモノが作品世界にあるわけではない。
しかしこの作品では劇伴音楽とモノの音(効果音)とが区別がつかない様になり、楽曲は作品世界と観客席のどちらにも足をかけるような非常に微妙な場所に身を置いている。いわば劇伴楽曲が作品世界中に具体的な居場所を持とうとトライしていると思える。

これらの劇伴楽曲達の存在が、作品外の存在である私が作品内に居場所を持つ余地を作り出している。だから私は楽曲を観客席から生物室のビーカーへの架け橋とみなしてすがりつき、みぞれや希美の物語を"覗き見る"ために渡っていった。

例えばみぞれがフグの水槽を見つめるシーン(aquarium,eyes)だったり、希美が音大に行こうかなと告げるシーン(linoleum,flute,oboe)だったり、生物室でのクライマックスシーン(decalcomanie,surround,echo)などがいい例だった。それぞれどれも印象的なシーンになっている。

aquarium,eyes

38秒と、楽曲としては非常に短いが、初見時に印象に残ったシーンの一つである。

水槽のジーという低音がまるで楽曲の一部のように聴こえたのだが、画面が切り替わって実はそうではないことに気づいた。あまりにも自然に、音楽が水槽の中に居場所を得ている。自分も無意識の内に、音楽の架け橋を渡り水槽の中のフグに場所を移していたのだろう。めっちゃみぞれに見られてたという事だ。


ひとつ、思考実験をしてみる。もしこの場面に「aquarium,eyes」が流れていなかったら、あの部屋の中のどの視点からみぞれを覗いてればよいだろうか。

みぞれの真横からか?斜め前からか?
どれくらい離れた距離で?
どれくらい静かに?

かなり迷う。しかし「aquarium,eyes」は、これらのパラメーターを定めた上でこう言ってくれる。
「そこの水槽の中に入っといて」
と。いわば観客のための"覗き見ガイド"ではなかろうか。(人聞きは悪いが)

linoleum,flute,oboe

このシーンは衝撃的だった。

みぞれが新山に音大の勧誘を受けた直後、希美と出会うシーンでは、吹奏楽部の練習する音が遠く聴こえていた。確かにそれは吹奏楽の音だった。
しかし廊下に差し掛かると吹奏楽の音がだんだんと叩くような音やガラスのような音とミックスされていき、しまいには今自分が聴いているものがどこにある音なのか分からなくなる。作品世界の廊下に響く音だと思っていたのが、いつのまにか劇伴楽曲のような何かとして聴こえてくる。
私にとってはこのシーンはほとんどホラーだ。シーンの雰囲気も相まって怖すぎる。いつの間に自分の聴いていた音は得体の知れない何かに変わっていたのか。3回ほど鑑賞したが、いまだにその境目はわからない。

ここで私が得た居場所は、"画面には映らない廊下の奥の方"なんじゃないかと思う。 廊下というのはよく音が響く。だからみぞれと希美から遠く離れた所でも、二人の会話が響いてくるのをこっそり聴く事ができたのだ。自分で書いていて、なんだか覗き魔みたいになってきた。


話は逸れるが、このBGMは結果として「響け!ユーフォニアム」シリーズとは逆行する試みになっていると思う。なぜなら、吹奏楽の音と劇伴音楽の境界を積極的に曖昧にする方向に作られているからだ。
響け!ユーフォニアム」シリーズでは、むしろBGMと吹奏楽の音のすみ分けを明確にする事が意識されている。この事は特に第1期のサントラで顕著であり、劇伴に管楽器の音色を一切使わない事ですみ分けを実現している。
一方で「linoleum,flute,oboe」では吹奏楽と劇伴がまじりあう、不思議な体験が設計されている。

decalcomanie,surround,echo

二人だけの秘密のシーン。ここまで来ると観客は完全に覗き魔確定だ。

ここでも音楽が
「試験管やビーカーに居場所作っときましたから、そこでなら見ていいよ」
と語りかけて来る。私はそのガイドに従って身を置いたという事になるだろう。
映画はクライマックスな訳だが、決して派手な音楽で盛り上げる事は無い。むしろ作品中で一番静かな音楽なんじゃないかと思う。



これまた思考実験なのだが、もしこの場面でみぞれの気持ちに寄り添った起伏のある楽曲が使われていたら、自分はどんな場所からシーンを眺めるだろう。
個人的な考えとしては、感情に寄り添う音楽というのは人物に一番近い距離に身を置く事だと感じる。感情に寄り添う曲は、登場人物と観客の間の直接の架け橋になり得る。これが"感情移入"というやつなのかもしれない。 この作品においてみぞれ本人に直接架け橋をかけていくのは違うと思う。何より「二人をそっと見守る」というテイストに反するだろう。2人の秘密も何もあったものでは無い。

「decalcomanie,surround,echo」は、我々にあの生物室の中での居場所を与え、二人の物語の行く末を見届けさせてくれる。




だからこれらの楽曲は、作品世界への架け橋でもあり、同時にみぞれ達から適切な距離に我々を置いてくれる"のぞみぞ鑑賞ガイド"でもあるという、多少メタ的な役割を負ってくれたのだと思っている。

ライトモチーフ的な劇伴使用について

最後に、話は変わるが、この牛尾さんのサントラの変わっている点として一つ、メロディーのライトモチーフ的な使い方が少ない事が思い当たる。

ライトモティーフ(ライトモチーフ、独: Leitmotiv )とは、オペラや交響詩などの楽曲中において特定の人物や状況などと結びつけられ、繰り返し使われる短い主題や動機を指す。

ライトモティーフ - Wikipedia

この作品を代表する音楽モチーフと言ったら、やはりリズと青い鳥」の第三楽章冒頭のメロディーになるだろう。普通のサントラだったら、このメロディーのアレンジがサントラの中に散りばめられるようなやり方があってもおかしく無い。例えば劇場版前作『届けたいメロディー』では「響け!ユーフォニアム」のメロディーが冒頭からラストまで繰り返し繰り返し用いられ、一番最後に久美子の手にノートが渡るシーンでピアノによって再現されて、最大のカタルシスが生み出された。あすかの大切にしてきた想いが久美子に受け継がれる瞬間を音楽によって牽引し、同時に作品全体の流れをも作り出している。ストーリーを支えて引っ張るライトモチーフとして、とても美しい使われ方をしていると思う。

一方『リズと青い鳥』の牛尾さんによる劇伴にはこのような役割のものが少ない。*4


普通こう言ったライトモチーフ的使い方では、メロディーは何らかの概念を表象する。例えば先の『届けたいメロディー』の例では、あすかの届けたいという想いを表象するメロディーであった。
リズと青い鳥』での第三楽章のメロディーは何を表象するのか。それは青い鳥とリズの苦悩や哀しみであると、楽曲解説から想像できる。つまりこれはリズ達の感情に寄り添ったモチーフであり、それは同時にみぞれや希美の物語にも重ねられ、彼女たちの内に秘めた気持ちが込められたモチーフであると思う。だからもし第三楽章のメロディーがライトモチーフ的に劇伴に使われたならば、それはみぞれ達の感情を代弁するものであり、みぞれ達と観客の間の直接の架け橋を作る事になるだろう。

しかし牛尾さんは敢えてそれをしていない。
出来なかったわけではないと思う。しかし、みぞれ達との肉迫した感情移入的な距離感を選択しなかったのだと思う。これも全て、みぞれと希美の物語を遠くから見守るためなのではないか。



一方で、あの第三楽章のメロディーが頭に刻み込まれている人が多いはずだ。それは、演奏シーンや童話世界のシーンを使って繰り返し刷り込みが行われているからだ。つまり、松田彬人さんによる作曲部分だ。
リズと青い鳥」は童話を基にした楽曲という事だから、童話世界のシーンではオペラ的にかなりライトモチーフが用いられる。そもそも吹奏楽曲「リズと青い鳥」自体が一つのモチーフを軸に作られているから当然ではある。童話パートではモチーフの繰り返しや変奏が物語を牽引し、展開を作っている。
演奏シーンでも、このメロディーの練習シーンが何度も繰り返される。タイトルロゴ部分での演奏と、クライマックスの合奏を聴き比べてみれば、みぞれが鳥かごの中から外へと出ていくビフォーアフターが大きく見えて来る。


だから、童話やみぞれと希美の物語には確実に「リズと青い鳥」のメロディーがライトモチーフとして存在している。しかしその物語を我々観客が追おうとする時、決して近くからでは無く、一歩距離をとってビーカーやフグの水槽から見守ろうというのが牛尾さんの楽曲のスタンスだ。何か感情を代弁しようとするのではなく、ただ我々観客のために居場所を用意してくれる、そんな容れ物のような楽曲に私には思える。

reflexion, allegretto, you

最後に、一つだけ好きなサントラの曲を挙げたい。「reflexion, allegretto, you」だ。
希美とみぞれが窓越しに手を振り合い、フルートで反射した日光が小鳥のようにみぞれの体を飛び回るシーン。

この音楽を聴くと、みぞれと希美の間にある青空の広がりを感じる。二人のいる教室の間は断絶されて離れているが、そこには美しい空がある。日差しがある。

私は、画面には映らない空気となって、微笑み手を振る希美やみぞれの一瞬一瞬を見守っていたい。これは私の願望でしかないが、音楽がそれを許してくれるような気がするのだ。


みぞれと希美に、またあのような穏やかな時間が訪れる事を願う。

*1:『映画音楽からゲームオーディオへ 映像音響研究の地平』(著:尾鼻 祟) という本がある。この第3章はとても面白かった。

*2:バランスが取れていたからこそ、我々は映画館で違和感なく鑑賞できたのだと思う。このあたりは、牛尾さん本人もインタビューでそれっぽいことを言っている。Mikiki | 特集「リズと青い鳥」 OST『girls,dance,staircase』二人の少女の繊細な関係性を牛尾憲輔が音像化。その儚く美しい世界観を映したコンセプト・ワークとは? | INTERVIEW | JAPAN

*3:「flute, girls」もこれに似ている部分があると思う。

*4:梨々花のテーマは例外だ。むしろ執拗なまでに繰り返しを行なって、梨々花という人物に親近感を感じさせる。