アニメと日々を見聴きする。

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いちアニメファンの読む ミシェル・シオン『映画にとって音とは何か』(1)

映画と音、音楽に関する本、ミシェル・シオン『映画にとって音とは何か』を読み終わったので、読みながら考えた事をアニメの例も多少交えつつ記しておきたいと思います。

映画にとって音とはなにか

映画にとって音とはなにか

※この記事は、本の内容や主張について詳細にまとめたものではありません。

今回はこの本の第1部及び第3部(音全般に関する部分)中心の話題です。

この本を手に取った理由

前提として、私は映画全般のファンではなく、いちアニメファンであるという事があります。


アニメ作品というと、まずはその作り込まれた個性的な映像、それから声優による渾身の演技などが注目されやすいと思います。
しかし、音楽や効果音といった「音」の要素にも、ふつう意識して耳を傾けることはないものの、アニメの魅力が詰まっていると感じます。


アニメ作品の聴覚的な要素を考えてみると、

セリフ
効果音(Sound effects)
音楽

という3つの主な要素があると思っています。
もちろん、物語の理解のためにはセリフの重要度が高いことは分かります。しかし、音楽や効果音だってその物語の演出に聴覚的に一役買うことのできるモノなんじゃないか?と、思うのです。劇伴音楽の良さなども、作品の重要な魅力の一つですよね。


そこでふと、「アニメの音楽、音に関して一般的にどんなことが考えられているんだろう?」という点について、少し知ってみたいと思ったわけです。
もちろん普段アニメを見る中で、「ここいい曲だな」とか「ここ面白い音の演出だな」とか個別に味わう楽しさはあるのですが、一方で一般論として、音と映像・物語との関係に関してどんな事が知られているのかを”勉強”してみたくもなったのです。


残念ながらアニメ(特に日本のアニメ)に絞ってそういった内容を書いた文献は、私の知る範囲ではありませんでした。
そこで映画一般に関して書かれた本を検索し、たどり着いたのがこの『映画にとって音とは何か』でした。

もちろん映画一般に関する論ではあり、私が手に取るにはハードルが高くも思いましたが、きっとアニメに通づるところもあると期待をして読んでみました。
そしてその期待は裏切られなかったように思います。


以下で、内容に関し特に気になったことを書き記します。

音の3つの分類

音は映像に対して割り当てられるという主張を軸にして、音を映像との関係性の中で

フレーム内の音(画面の中に音源がある)
フレーム外の音(画面に隣接する空間に音源はあるが、画面には映されてない)
オフの音(画面で示す場面とは別の時空にある音源)

という3つに分類していました。例を考えれば、

フレーム内の音 : 画面に映ってる人のセリフ、足音
フレーム外の音 : 画面には映ってないが隣にいる人のセリフ、画面外から聞こえる車の音など
オフの音 : ナレーション、劇伴音楽

などでしょう。


また、3つの分類の間の境界領域の使われ方も語られており、これがとても重要なものに思えます。
例えば『抵抗』という作品の分析での、「フレーム外の音→フレーム内の音」と音が境界を越える事自体がドラマの進展を反映しており劇的な効果を生む、との指摘は興味深かったです。
「フレーム外の音とオフの音」の境界の不明瞭さが際立つ作品の例もあり、そのような場合に生み出される特殊な効果も説明されました。



3つの分類の境界に関して私が思い当たる例の1つは、日常系アニメなどでありがちな”大げさな”効果音です。
生身の人がジャンプするだけで「ぴょぃん」みたいな”現実ではあり得ない音”が出たりするヤツです。


例えばアニメ「みなみけ第1期などを見てみましょう。
別にこのアニメに限る必要はないですが、単なる筆者の好みです。
第1話の冒頭、夏奈が布団からはね起きる時の効果音なんかはその例です。

gyao.yahoo.co.jp

普通の物理法則を考えれば人が起き上がるだけでおかしな音は出ないため、「オフの音(=作品の世界では鳴っていない音)」の性格を持ちますが、一方でどう見ても起き上がる動作に追随して鳴っているように聞こえるため、「フレーム内の音」とも捉えられると思います。
ああいう音は、「フレーム内の音とオフの音」の境界に位置していると、考えられないでしょうか。
この本では「フレーム内の音とオフの音」の境界を超えるのはもっぱら音楽であると言っていますが、今の例は効果音の例です。


こうした効果音を、分類の境界にある音と捉えてみると、なんだか不思議な魅力が詰まっているように感じます。
今の例だと、効果音によって起き上がる動作を多少コミカルに演出できますよね。


この3つの分類の話題は、この本でもっとも印象に残った部分でもありました。

リアリズムに関する懸念

マルチ・サウンドを使って音を”リアルに”空間的に配置することの是非について議論がなされていました。
これは例えば、画面の中で車が右から左に走ったら、映画館でスピーカーから出る車の音も右から左へと移動させるような音の配置についてです。


ミシェル・シオンは、音の空間的なリアリズムに関する懸念をいくつか表明していました。
その一つがショットの不連続性で、例えば画面左端で話す人物を次のショットで画面中央に正面から映す場合、リアルに音を配置してしまうと、ショットの遷移前後で話し声が左のスピーカーから中央のスピーカーへと”不連続に”移動し、ショット間の不連続性が目立つというものでした。
つまりここに、空間的な音のリアリズムを取るべきか音の連続的なつながりを取るべきかという二者択一があると言うのです。

妥協的な対策としては、劇伴音楽や効果音・セリフの密度を上げることでつなぎの不連続さを分からないように”ごまかす”手法が指摘されていました。


いち視聴者としては、正直なところ「そんなに気になるか?」とも思うのですが……
普段気にした事がないからこそ、面白い指摘でもありました。


この点に関して、私が最近見たアニメ「ガールズアンドパンツァー」の例がすぐに思い浮かびました。 ガルパンには数々の迫力のある戦車道の試合シーンがあり、そこでは多くの戦車が画面の中を縦横無尽に動き回ります。

戦車道の試合シーンでは音響もリアルに作られており、まさにここで問題にされている通りに、「画面内の動きに合わせて音もスピーカーの位置を変えて動き回る」ように作られている場面が多いです。
このように音の空間的なリアルさを追求すれば、音の不連続さによる不具合も出るだろう、というのがシオンの指摘でした。



この本を読んだ後、”音がリアルな”作品の例として、改めてガールズアンドパンツァーの劇場版を鑑賞してみました。

(2017年11月24日現在、Amazon primeで視聴可能なようです。)

すると確かに、戦車と砲弾の音だけが響くシーンで、ショットと共に音が不連続に切り替わる場面が存在するように思えました。
例えば、最初の親善試合の市街戦などをみると、顕著にわかるシーンがいくつかあると思います。
同じ砲弾でも奥から手前へ撃たれたのが次のショットでは右から左へ飛んだり、同じ戦車の移動音が画面中央で聞こえていたのが次のショットでは右から左へ横切ったり、という具合です。
親善試合に限った話ではなく、終盤の試合でも同様なシーンが見つけられました。


シオンはこの”リアルさ”に否定的な部分を見出していますが、人によってはこれをポジティブに捉える事もあると思います。実際私の感想としては、強く気になるほどの不連続な印象は持ちませんでした。
ただよくよく聴いてみると、ショット間の音の繋ぎが他より断絶されて聴こえるのは確かです。
しかしその分、実際そのアングルで試合を見ているかのような臨場感が感じられるメリットがあるのです。


なぜ不連続さがさほど気にならなかったのか?
そのためにどんな工夫がしてあるのか?
などを考えてみるのも面白いかと思いました。
考えられる要因の一つには、この本で指摘されているように劇伴音楽の効果もありそうです。



また、一人称視点でカメラアングルがぐるりと回転するようなショットで生じる問題点についても、この本で指摘がありました。
視点の回転に合わせて音の位置もうまく動かさないと、音が映像から孤立してしまうというものです。

ガルパン劇場版ではこの点に関しても、とことんリアルを追求する方向で対処しているように思えました。
例えば、最終決戦シーンにおいて西住みほ一人称視点で進む一部分では、視点がかなり急激に回転するのと同期して、聞こえる音も回転するように処理されていました。



ともかく、空間的な音のリアリズムをとるか音の連続性を重んじるかという二者択一がある事は、考えたことも無かったため面白い指摘ではありました。

効果音のリアリズムの加減

第3部ではフランスの映画製作の現場向けの実務的な提言が多かったのですが、その中でもいち鑑賞者として有用な記述がありました。
効果音のリアリズムの加減という話題です。

これは、画面の中で音を立ててもおかしくない物には全て効果音をつけるという姿勢への提言(苦言?)でした。
映画が不必要な音で溢れた結果、音による劇的な効果を生み出せなくなってしまうことへの懸念が示されています。


ここでシオンは、

その場面の意味や表現したい事に従って音の取捨選択をする事(=リアリズムの加減)
ありふれた効果音でも、演技や動きに合わせて配置することで演出効果を生み出せる事

を指摘しています。

ただ第1部の「冗長性」の項で議論されているように、このような”音による意味づけや性格付け”は、成功しても視聴者には認知されないまま効果を発揮するのが望ましいのです。
ですから、初めからこういう工夫ばかり気にして作品鑑賞するのは正しい姿勢ではないかもなとも思いました。

謙遜の規則

映画に使われる音楽に課される条件に関して「謙遜の規則」と称し、”映画音楽は、良質であっても目立たないように/無意識に捉えられるようすべきだ”という主張がなされています。


私は、「あんまり音楽が出張りすぎてもいけない」という要求にはおおむね納得できるのですが、ではその要求はどういう論理で正当化されるのか?という点にあまり理解が及びませんでした。

この本では、「多くの映画監督や作曲家が謙遜の規則を支持している」という根拠によって正当化されています。
「えらい監督たちがそう言ってるから〜」と言われると、まあじゃあそうなのかな…と引き下がってしまいそうになりますが、そこはもう少し解説があったらうれしかったな、と思います。


勝手に考えてみると、例えば音楽が目立ってはいけない理由の1つとして、「セリフを邪魔してはいけないから」という点がすぐ思いつきます。
物語のキーとなる重要な状況説明をセリフで行っているシーンで、注意力を持ってかれるような音楽が鳴っていたら困りますよね。
でもそれは全てのシーンに当てはまる訳ではなく、じゃあセリフが無いシーンではどれくらい音楽は主張して良いか?などは別個に考えていく必要があるんじゃないかな、などと思ってしまいます。


なんにせよ、「どういう理由で謙遜の規則が正当化されるのか?」という点についてもう少し説明が欲しかったし、考える余地のある部分かなとも思います。



またむしろ、音楽を積極的に聴くことで作品の面白みを享受できるような場合もあると個人的には思います。

有名なアメリカのカートゥーントムとジェリーでは、音楽が映像の動きとリンクする”ミッキーマウシング”がかなり過度に行われています。
こういう例では、音楽は無意識で捉えられた方が良いとは一概に言えないような気がします。


例えば「目茶苦茶ゴルフ」の冒頭部分が私は結構好きなんですが……

(著作権は切れてるらしいですが、youtubeなどにupされてるのが本当に問題ないのか自信がないため一応リンクは貼らないでおきます。検索すれば出てきますが。)

この話の冒頭では、タイトル場面で鳴っていた曲がそのまま劇中音楽へと移行していき、一方本編ではまず荒れたゴルフ場の風景が映し出されます。
そしてしばらくゴルフ場をカメラが移動していくと、バンカーにはまった球を出そうと必死の形相でゴルフクラブをスイングするトムが現れます。
そしてそのリズミカルなゴルフクラブのスイング動作が、ずっと鳴っていた劇中音楽のテンポと一致していてギャグとなる、というシーンなのです。


音楽のテンポがギャグに直結するこの場面について、「音楽が意識して聴かれない方が良い」と主張するのは果たして可能でしょうか。
私は、音楽と映像に同等に意識を向けて見た方が、このシーンのコミカルさをより楽しめるはずだと考えました。


これは少し極端な例ではありますが、こういう妄想を通して、どこまで音楽は目立たずに在るべきか?というのはまだまだ考える余地のある話題かな、とも感じました。




最後少し第2部の内容に入りましたが、残りの感想はまたの機会にします。